2/25/2010

おーちゃん

お久しぶりです。
バンクーバーはオリンピック一色ですね。
頑張れ真央ちゃん!おーちゃんも絶対に応援しています!

2/10に日本へ吹っ飛んで行きました。
大好きな祖父おーちゃんが危篤との電話をもらい。

おーちゃんは、肺がんを患い、去年のクリスマスからお正月の帰省の時点で、病院に入院した状態でした。1月の終わりに、病院の先生から、癌が進行して肺の95%を埋まってしまった。もう抗がん剤の治療も、体が弱っている為できない。という事を宣告されていました。残された時間の中で、おーちゃんが一日でも好きな事ができるように。と、叔母、母、叔父の4人はおーちゃんを家に連れて帰ることにしました。そこから24時間体制の看護が始まりました。2月のはじめ。毎日電話しました。そのたびに、”はい””うん”と返事をくれていたおーちゃん。真央ちゃん応援しようね!というと”そうだね~”といつも言っていました。
容態が変ってからも、電話をすると”あー”と声で返事をしてくれていました。遠くからでつらかった~。今すぐにでも行ってイタイイタイ、といっている体をさすってあげたかった。
2月の2週目。覚悟しといてください。といわれた家族。そしてそれを私に伝える母。仕事場で時と場所も考えずに涙がホロホロと止まらずに。何もする気になれず、考えるのは、日本に行くことあばかり・・・2/9にチケットをとり、2/10にオリンピックの開会式が行われる日本を出発。

間に合いました。
おーちゃんは私が日本に帰るという話を聞いてから、あと、何時間?とずーっと時計を気にしていたそうです。私がおーちゃんの家についてから、手を握ってあげました。それからずーっと一緒にいました。キャリオーンひとつで行った私は、夜、パジャマの上に羽織るものがなく、オーチャンのチョッキを貸して~っていうと”いいよ~””それは暖かいからね”と。
寒いのが嫌いだったおーちゃん。
それから容態が悪化したり、落ち着いたりの繰り返しでした。
痛い痛い!苦しい!苦しい!と何度と言っていました。
何もできない代わりに、手でさすってあげました。
もうだめだ。と言った後”がんばる!”といった事も・・・

2/17の朝、
おーちゃんが眠っていた為、みんなで朝ごはんを食べました。
その後、叔母が様子を見に行くと、大きな息をひとつした後、呼吸をしませんでした。おーちゃん!と大きな声で呼ぶと、もう一回息をしました。そしてまた、呼吸がとまりました。叔母はおーちゃん、と呼びながら、私達を呼びました。私の母、いとこのメグ、叔父、そして私。おーちゃんは眠ったまま、天国の祖母の元へ旅立ちました。
朝8:30のことでした。

私は祖父に2/22に日本をたち、バンクーバーに戻る事を伝えていませんでした。
ずーっと一緒だからね。というと顔を下にして”うん”とうなずいたおーちゃん。
寂しい思いをさせてしまっていてごめんね。
17歳からオーストラリアに留学し、カナダにすんで10年。
日本に帰っても、いつかは成田に行き、さよならしなくてはいけない。

”元気でいればいつでも会えるから”

おーちゃんが私に書いた手紙の一行。

私がカナダに来てから、4年後に初めて帰ったとき、酔っ払ったおーちゃんは私に
”お葬式はちゃんと出てね”
と言った一言。

忘れてないよ。

約束だもんね。

そんなことをちゃんとお見通していたおーちゃんは、私がお葬式に出られるように、17日を選んだのかもしれない。私が来て、あまりすぐ逝ってしまったら、なんでもっと早く来なかったんだろう。と思うだろうし、私がカナダに帰ってしまった後だったら、お葬式を出るっていう約束が果たせない。
おーちゃんはそうやって、いつもみんなの事を考えていたんだね。
私が孫の長女でいっつもいっつも可愛がってくれました。
私が生まれた年には、海の別荘に、桜の木を植えてくれました。
私とメグを連れてイロイロなところに旅行に連れて行ってくれたね。

ずーっと一緒だからね。
の約束を守るように、おーちゃんは叔父に、おーちゃんの腕時計を私に渡す事を託しました。
告別式も終わり、叔父が私に
”これはおーちゃんがおまえにやってくれって言ったから”
と言って差し出したおーちゃんの腕時計。

それはおーちゃんの左腕から私の左腕へと。

ずーっと一緒だからね。

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